肥溜めに手を突っ込んででも、武器を取り出したい夜がある

 たとえば、強姦を描いた2本の作品があると仮定しよう。性器や体液、擬音の描写は同程度で、不健全指定のぎりぎりのボーダーラインにあるとする。
 1本では女は抵抗し悲鳴をあげ、男を憎む。
 1本では、女は最初は拒否するが、男の「性のテクニック」にエクスタシーを感じて、最後は男を受け入れる。


 今までの条例では、抵抗し悲鳴をあげる前者のほうが、残虐という意味あいで「不健全指定」となりやすいンじゃないのか。
 改定条例では、「強姦賛美」であるかどうかという視点が入るから、後者も指定される可能性が高くなるだろうと、私は期待している。後者も十分に「青少年に見せたくない」のだ。

犯罪の発生率だけが問題なのか?

 強姦の発生率、性犯罪の発生率は、たしかに問題だ。だが、女を不幸にするのは犯罪だけではない。
 恋人とのベッドの上で、
「それは、いや」
と伝えて、
「そんなこと言うけど、実は感じているんでしょ」
と返されたとき。
 女は、
「自分の意思さえ伝えることの出来ない生き物だとみなされたのか」
と思う。
「どこの誰が、この男に、女は感じても拒否するんだなんていう愚かな信念を吹き込んだのだ」
と思う。
「男の中ではずいぶんマシな男に恋をしたつもりなのに。それでも、これか」
 屈辱感と疑念、そして絶望感が、女を不幸にする。そして、創作作品に疑いの目を向けるのだ。パパやママ、学校の先生が、彼にそんなことを教えた道理はないのだから。


 1本目の記事に書いたとおり、

女性のなかにはパートナーが影響を受けていると思っている人は存外多いのではあるまいか。そうでなければ、どうして、leccaの「too BAD,too FAKE」のような作品が、この世に生まれてくるのだろう。

……と、私は思っている。

なぜ、「改定反対」なのか。

 今回の条例改定による制限が「言論の自由の問題」だと言うなら、「全ての」作品について言えばよい。これまでの条例が自主規制を求めていた、すべての「卑わい」で「残虐」な作品もまた全年齢に対して販売し、「言論の自由」を妨げるゾーニングを禁止しろ、と、主張すればよい。それが「無理」だというなら、条例施行後は「強姦賛美」も「無理」の列に加わるだけのこと。
 「無理」が無限に増殖してはいけないのは、当然のことだが。ここまではまだ「無理」の列に加わってほしい。
 青少年条例に、「卑わいなものを見せない」ことを定めてほしいわけじゃない。「青少年に見せたくない」ものを定めてほしいのである。
繰り返しになるが。冒頭に掲げた例で、後者も十分に「青少年に見せたくない」。


 これまでも、不健全図書指定で売り場を移された作品はある。これまでも、創作は聖域などではなかったのだ。これからも、聖域である必要はない。 
 今回の改定に反対で、既存条例に切り込まない理由はなんだろう。「既存条例」にも「曖昧な部分」はあり、濫用は不可能ではない。「それでも濫用は起こっていない」となれば、「じゃ、改定条例も、同じくらい濫用はないんじゃない?」と「多勢」に思われてしまう。そのリスクを避けているのではないか、と、疑う。そもそも法なんてかなり曖昧なものだ。たとえば。

刑法第175条(わいせつ物頒布等) わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。

wikipedia「わいせつ」(最終更新 2010年12月26日 (日) 07:22版)

“わいせつ”の何たるかについて正面から論じた裁判官は未だにいない。


条例の最大の「功績」は、多くの議論を呼び起こしたことだと思う。

 この条例が何年もつかなんて、私は知らない。だがこれだけの議論を巻き起こしたことは、一つの資産だと私は思う。男たちが、女たちが、自分の心の奥底を覗き込むためには、議論≒言語化は、有効な手段だからだ。


 私は私の個の体験をもって、個の意見をもち、それを表明する。それを私怨と斬って捨てたいなら、ご自由にどうぞ。私は、誰に「お前の意見を変えろ」とも強いない。ただ、「こう考える者もある」ということを知っていただきたいだけだ。