電脳空間独立宣言

 別ブログで(正直をいえば)旧記事下げのために紹介した「電脳空間独立宣言」を、何人かの方に取り上げていただいたようなので。私個人の感想も書いてみようかと思う。


 私が「電脳空間」に足を踏み入れたのは、1991年。その世界はおそらく今よりずいぶんと安全だったはずだ。ウイルスの歴史は83年ごろに始まったらしいが、それは英語圏、AT機のことで。私たち、NEC-98機を使う日本語ユーザーには遠い世界のできごとだった。


 私が利用していたサービス名は、Nifty-serve(1987年開始)。すべてのユーザーは、クレジットカードによって実名と「ひもづけ」られていた。それよりなにより、ユーザーの層はずっと薄かった。

15年前はまだインターネットじゃない、パソコン通信ですよ。コンピュータがいまより高価で、自宅にPC買った人は少なかったし、通信にまで繋いだ人はさらに少なかった。かといって、普通の会社の事務職の部長や課長がPC打つ時代ではなかったから、パソコン通信へ入ってくるのは、比較的若くてある程度金がある、狭い年齢層のなかの人が多かった感触ですね。



以前書いたことがあるけれど。


 ある種の選民意識。というのがあまりに乱暴であるならば、「誇り高きPCオタク」とでもいうべき種族が多かった……のは、果たして、私の周囲だけだったのだろうか?


 「電脳空間独立宣言」が発表されたのは1996年、93年からパソコン通信とWEBの相互乗り入れが始まっていたとはいえ、まだ黎明期といえる。私個人もまだ、WEBに這い出しておらず、Niftyの住民だった。




 さて。今回このURLを、私はいままさにWEBに干渉してこようとしている政府にパブコメを作成していらした海風氏の「戦陣見舞い」の「差し入れ」にしたwのだけれど。なんて遠くなったのだろう、という思いがあった。


 たった12年前。当時であれば、「われわれのことは、ほっておいてくれ」といえた。なぜなら「電脳空間」は生活必需品ではなかったからだ。「電脳空間独立宣言」を読んだころ、これほど多くのヒトが「電脳世界」に入り込んでくるとは予想していなかった。私の想像力がとくに不足だったとは思わない。HTMLの創始者ティム・バーナーズ・リーでさえ、今ほど多くのヒトがHTMLを書くようになるとは思っていなかったと聞く。


 今もまだ、「必需品」は語弊があるかもしれないが。当時とは比べ物にならない数のヒトが、電子メールを郵便がわりに使い、ニュースを読み、検索エンジンで調べ物をする。「ほっておいてくれ」とはとてもいえない。「より良い規制をしてくれ」、というのが、せいぜいだろう。


「電脳空間独立宣言」を再読して、思い出したことがもう一つある。
 上に、「比較的若くて、当時の高価なPCを買う金があった」と書いたけれど。若さと金と、もうひとつ、パソコン通信にかまけるだけの時間がある者だけが、「電脳空間」にいりびたっていたので。私たちの仲間うちでは、けっこう頻繁に、ネット恋愛カップルが成立していた。
 仲間たちは、顔も見ず、ただ互いの文章だけを読んで恋に落ちていった。(と人ゴトのように書くが。まあ、余は察しといてください)
 別に、なんというか、出会い系サイトのような文章ではない。たとえば、ネット論だったり、仕事の専門分野の論議だったり、哲学の話題であった人もいた。
「外見なんて関係ない、私たちは魂で恋をしたんだから」
というのは、当時、ネットの恋がきっかけで結婚した女性が、私に言った台詞である。
 「魂」で恋して、物理的に共に暮らし始めた彼らと彼女らは、すぐダメになった人もいたし、いまだに共に暮らし年賀状をくれる人もいる。
 肉体は物理的に生まれ落ちた国に従属せざるをえないが、「自我」はそれとは別の国に所属する、という「電脳空間独立宣言」は、物理的肉体とは別個に恋をしようとした彼らに、似ているような気がした。


 安保デモや学園紛争の世代がそれぞれにかつてのムーブメントを語るときの、甘酸っぱい表情を見て、若い頃の自分は、その「熱」を当事者として経験したことへの少しの羨望と、結局なしえなかった夢へのノスタルジーに対する軽い軽蔑を感じたことを憶えている。
 あの初期の「電脳空間」は、そんな政治的ムーブメントに比べればもっと小規模で。「電脳空間独立宣言」は、言ってみれば、“世間”に知られない少数派の実働を伴わない共感を呼びながらも、時代と状況の変化とともに霧散してしまった儚い何かであったように思うのだ。