コメントを削除するということ

 さきほどタイムスタンプを確認したら、2002年のことだった。私が、Nifty-Serveというパソコン通信からWEBへと出て、初めてサイトを作成して間もないころの話である。私のサイトの掲示板の常連が、ある作品を汚い言葉で揶揄する書き込みをした。その作品は、私のサイトのリンク集のページに収録した、ネット上の知人のサイトの掲載作品だった。当時は、まだ、個人サイトではSEO対策なぞの言われていない頃である。リンクは、今のように「相互リンクでGoogle検索順位を上げる」などという小細工ではなく、「また行きます」というファン表明であり、自分のサイトの客に「このサイトはいいですよ!」と勧める意味合いもあった。そういうサイトに対しての悪質な揶揄である。自分でいうのもなんだが、あのときの私のレスはかなり冷ややかなものだったと思う。私の怒りは、……きっちりと伝わったらしい。掲示板の常連であった発言者は、私のサイトの掲示板にあった発言を、すべて削除し、
「二度とカキコミはしません」
とメールをよこした。
 掲示板というのは、対話である。その対話の中から、一人の発言だけを削除すれば、文脈は失われ、「会話」は、単なる言葉のカオスと化す。しかもその人は本当に大常連だった。ほとんどすべてのスレッドにからんでいた。その人が一人、自分の全発言を削除したことで、全スレッドが文脈的におかしくなった。……後からその惨状を見たときの自分の気分を、私は今も忘れていない。


>文章は「書いた人自身のもの」であってほしい
 と私は書いたことがある。原則として、書いたものの修正権、削除権は、書いた人にあると思う。


 だが。


 WEBでの対話において、レスのついた会話は、「書いた人だけ」のものだろうか。対話の片方が削除されれば、対話相手の「言葉」は無意味になる。


 正直にいえば、掲示板、とくに質問回答系の掲示板では、私は修正が多いほうだと思う。理由は、ポカミスが多いからだorz。
 たとえば、発言をする。ミスがある。次の発言で、他の方の修正がはいる。そのときに、私は自分の元発言に朱をいれる。訂正をしなければ、質問者がレスを読み進むとき、私のミスがある発言に基づいて自分のブログのカスタマイズを進めてしまう危険があるためだ。だが、朱を入れるときに、最初の「ミスがある状態」がわかるように心がけている。元の発言を消して、自分のハジを隠してしまいたい誘惑は山々だが、それでは「次の発言」の意味が失われるからだ。


 WEBでの言葉のコミュニケーションにおいて、たとえ、その場での「論敵」であろうと、他人の言葉を無意味にするような削除行為は、他人の言葉を大切にしないこと。ひいては、他人を大切にしないことにつながるような気がしてしまう。と言ったら、言葉フェチにすぎるのだろうか。


 私がWEBで動き始めた初期に負った「トラウマ」のせいなのかもしれないが、自コメントを削除してよいのはレスがつくまで、レスがついたら原則として削除はすまい、修正するとしても元の形がわかるようにしたい……、と、思ってしまうのである。

23:43若干推敲