立てたコインのこちら側

 数ヶ月前のことだ。私は、とある議論に参加していた。
 論点がほぼ出つくしたことと、相手の方のリアル多忙もあって、相手の方の、
「反省しつつ、次へ」
の一言で、議論は終止符をうったものと考えていた。


 ところが、である。


 別の方のブログに、どうもその議論のこと「らしき」話題が何度か上がった。「らしき」というのは、論点も議論対象者のハンドルも明確に記されることなく、抽象的な批判語だけを並べた記事なのだ。


 しばらくして、このブログに良く似た論点のブログがもう一つでてきた。こちらは複数メンバーのブログ。上記の方が参加しているのかいないのかは、不明。


 そして。最初の議論の相手だった方のブログに奇妙な記事があがったのが、11月も終わりのことである。どう奇妙かというと、同じブログに7月に上がった記事の、まったくの焼き直しなのだ。
「なんですかね、あれは」
 私は私信で友人に疑問符を投げた。
「お仲間たちに『ここであなた自身でもう一度全体の総括を』とでも言われているんでないといいけど」
 これは、もちろん憶測でしかないわけだが。本気でご自分の意思で議論に戻ったのであれば、新記事の発展性のなさはどうだろうか。


 もし、もしもだ。
 リアルの都合で何ヶ月もネットができないでいて、ようやく戻ったら、「味方」を自称する方たちに、
「アナタがいない間、われわれは議論を続けていたのだから、本人であるアナタは当然加わってくれるのでしょうな」
というニュアンスで、何ケ月も前の議論に引き戻されたのだとしたら、ずいぶんシンドイ話のように思われる。
 まして。その方が主に私たちと直接の議論を交わしてきた相手。率直にいえば、離れていた人間を、「矢面に引きずり出した」ように見えなくも、ない。


 向こう側から見ればおそらく違うものが見えている、ただ、こちらからはどう見えるかといえば、「こうも見える」ということなのだ。
 むろん、これが外れていてくれたほうがいい憶測であることは、承知のうえであえて書いている。反論として、合理的な説明がいただければ、こちら側の精神衛生にとっては、ありがたいンである。


 この数日。当初の「抽象的」ブログの方に新記事があがって。友人が──(リンクを貼って)──噛み付いた。
 正直にいえば、そのブログの記事が、友人や(私を含めた)くだんの議論の参加者をさしているのかは、まったくわからない。あいかわらず、論点も批判の対象が誰かも明確でないからだ。
 この界隈では、「クリリンのことか」という便利な言葉がある。相手不明の批判記事を上げる際に覚悟すべき、当然の副作用といえるだろう。


 友人が、なぜいま、件のブロガー氏に対する数ヶ月の沈黙を破って、批判をあらわにすることにしたのかは知らない。


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 まったく、違う話題。ある議論をなさっているブログで見つけた言葉である。

この人なら真剣勝負ができる、という信頼感。そういう相手がいるというのは幸せだと思う。

 心から賛同する。逆に言えば、信頼感皆無の相手との間に、時間を割く価値のある議論は成立するのだろうか?


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 今回は相手方の方々の流儀にそって、記名なしでいってみました。