人格攻撃という言葉が、伝わらなかったみたい。

 OYAJI氏ブログのコメント欄にて、「人格攻撃」という言葉が伝わらなかったようなので、説明を書いてみようと思いたった。
 もう《Y!》限定の話題を完全にはみだしているので、自分では議論系に当てている《はてな》で書く。

 私の「人格攻撃」定義に、一般性があるかどうかは、よくわからない。ご意見があれば、コメント欄にどうぞ。とりあえず、他人に人格攻撃を禁止する意図ナシ。他人の人格攻撃を攻撃する意図ナシ。どちらかというと、「私自身の行動基準」の表明、みたいなもの。
 ひとつは上に書いたように説明のため、もう一つは自分で自分の基準を守るために、明文化の意味合いで書いてみようと思う。私は、へんたい言葉フェちなので。漠然ともっている自己規律も、言語化すると少しばかり守り易くなるようなところがある。ブログなどに載せて公表すると、さらに少し、守りやすさは上乗せされる。

 私自身は、一度、自分の感情の「限定解除」を宣言して個人批判記事をあげ、その後、(正直にいえば今に至るも)「感情の後遺症」に悩まされた。(細かいコトぁ、聞くなw)
 ただ、その件を通して、自分はそれまで他人に対する人格攻撃や感情の爆発をやらかさない中で友人を作ってきたのであり、繰り返せば、そういう友人を失うだろうと実感した。(正直にいえば、この前後のごたごたのなかで、私はもっとも大切なWEB上の友人の一人に、三下り半をもらっている)

 その一方で、いったん解き放ってしまった感情という猛獣にもう一度鎖をつけるのは、自分自身との格闘技みたいなところもあってw、自分のなかでいくつかのことを「言語化」していった。誰にいつ聞かれても答えられるように、言葉を用意していった、という感じ。そして、いくつかの記事の形で、公表もしてみた。
議論の理由
批判のライン

 で、今回は。私が現在、何を「人格攻撃」と呼んで、避ける努力をしているか、書き留めてみようと思う。

きっかけは、こんなケース

 もともとの話は、OYAJI氏の「YAMAHAブログパーツ」記事において、ブログパーツの配布元であるYAMAHAにアクセスしなくても使えるという紹介の仕方に問題がないか、という話題から派生したもの。

 まず、最初に配布元へのリンクを置き、その後に(めだつ)画像、その直下にwikiタグを置く、というOYAJI氏のYAMAHAブログパーツ記事の形式を模した、画像のwikiタグ紹介記事「[ネタ]うそ素材サイト・紹介記事(Bさん)」を私が提示。妥当と思われる紹介記事のサンプル「[ネタ]うそ素材サイト・紹介記事その2(Aさん)」も提示した。

 これに対するOYAJI氏のコメント。(註:この記事において、OYAJI氏のコメント/記事の引用は、引用者が改行箇所を変更しているものがある)

http://blogs.yahoo.co.jp/adankadan/25776618.html#25783758
こちらでの阿檀さんへの返信。
作者の要求に関しては、悲しいと思うのであればそれなりのルールを作っておけば良いでしょうし、リンク表示を義務付けておけば良いですし、「ソースコードは必ずそのまま貼り付けて下さい。それ以外は認めません」などといったルールを提示しておくべきでしょう。(Yahooブログ公式ブログパーツのようにね)
それよりも、その作者さんに対しては
超簡単!!メロメロパークのメロを設置しよう
http://blogs.yahoo.co.jp/uragoe_2ch/3538487.html
こちらの記事中の「メロメロパーク運営局 田中様」の回答のような度量を持って頂きたいと感じますし、相手の気持ちを汲んで逆に感謝の言葉を頂けるような作成者も居るという事を知ってもらいたいと思います。
当然ながら、作者側が再配布禁止に抵触するかどうかを決める権利を持っているわけですが、Aさんのブログに訪れるブロガーが程度の低い、モラルの無いブロガーが多い場合、そして逆にBさんのブログでは常々、ちゃんと人のものを利用する際には感謝の気持ちを持って使うように訴えて、利用規約などもちゃんと読む心がけが大事だという訴え、コメントなどを常日頃から目にするような機会に恵まれている場合には、作者のそのような通告は、第三者にとっては「アホやなぁ・・・」っていう風に見える可能性がありますね。
なので、作者の要求は不当では無いですがBさんに落ち度が無い場合にはBさんの主張も間違ってはいないと思います。
2008/9/24(水) 午前 5:28
 要するに、このサンプルで想定した素材配布者の再配布禁止要求は不当では無いが、<img>タグが使えずかつ画像が使えるシステム(私は《Y!》ブログしか知らない)の存在を想定したルールを予め提示しておくべきであり、しかもwikiタグ紹介者が紹介記事以外でどのような活動をしているか把握せずに抗議すれば「アホ」に見える、というのがOYAJI氏のご意見とのことである。
 これを踏まえた私のレスコメント
OYAJIさんは、メロメロパークのスタッフにwiki文法紹介を歓迎されて、ブログパーツ配布元たるもの、すべからくあああってほしいようですが。メロメロパークは、たしか無料でもプレイできるけれど、キラリンという有料通貨もあったかと。ユーザーが増えれば増えるほど、提供元は儲かる「チャンスに繋がる」メロメロパークと、「(イラストの元の)ピアニカを見てほしい」という動機づけのあるYAMAHAのピアニカブログパーツを同列に扱うのは、 YAMAHAさんに気の毒ではないでしょうか。
2008/9/28(日) 午前 0:55
 このコメントが、OYAJI氏の逆鱗に触れた、らしい。
▼『あまりに酷い認識だ!(怒)』
この発言だけは、聞き捨てならない暴言
私が残念なのは、そういった純粋な相手の気持ちを踏みにじるような発言を平気で行ってしまうその心根がとても哀しく残念に思いますしずっと ■ ブログ初心者が知っておきたい★10の法則★【1】こちらの記事で、相手の気持ちを思い遣る大切さを訴えてきている私の信条から言えば、とてもじゃないですが、聞き捨てなりません。
純粋な心の発露からの言葉を、不純な動機づけが元になっている と断じてしまう
ブログパーツ配布元たるもの、すべからくあああったら」何か困るのでしょうか?
 この記事には疑問を感じたので、反論記事をあげた。『お金儲けは不純な動機ですか?』……私にとって、「まっとうな」金儲けは不純ではない。
 これに対して、OYAJI氏からレス記事をいただいた。
▼『自分の書いたコメントをお忘れですか?』
金儲けの純粋・不純論を、議論しているのでは無い。
確かに、全くのボランティアでああいったブログパーツを提供しているわけでは無いのだから、ゆくゆくは 金儲けの一環 になるにせよ、私としては、あのメールの文面はどう読んでもやったぁ〜!!これでYahooブロガーに対しても儲けが期待出来るぞ〜!!という、『歓喜の声』 であったようには、とても思えない。それが全く伝わっていないのが残念です。
▼『誰が金儲けが不純だと書いた?』
私は、「正当なビジネス」での金儲けは、不純なことでは全く無いと思っています。
コメント
それが理解出来ないのであればもういいです。

 この件については、OYAJI氏がおっしゃるとおり、私はどうして自分のコメントがそこまでの怒りを買ったのか、まったく理解できていない。
 私のコメントのどこをどう読むと、「これでYahooブロガーに対しても儲けが期待出来るぞ〜!」まで意味を狭くとれるのか? メロパもビジネス、YAMAHAもビジネス。メロパはユーザーを増やすことで、YAMAHAは配布元にアクセスを集めることで、ビジネスの成功に結びつけようとしている。では、そのブログパーツを紹介するときには、そういう「大人の事情」に配慮があってしかるべきではないか、という話をしていたはず。
 金儲けは不純である→阿檀はメロパを金儲けと言った→阿檀は、メロパを不純だといった、ケシカラヌ。……これなら判る。
 金儲けは不純ではない→阿檀はメロパを金儲けといった。→阿檀は、メロパを不純だといった、ケシカラヌ。……OYAJI氏の論法はこうにしか見えない。私には、理解できていない。
 この議論に関して、OYAJI氏からはもうコメントは入らないはずですね。「もういいです」と明確に宣言なさったのですから。
────と書こうかと思ったのですが、やめますww。相手の口を塞ぐな、というのが私の自己ルールの一つなので。

人格攻撃って?

 さて、ここまでが経緯。

 この流れであげられた記事に「阿檀さんのブログ姿勢ってそんなんだったの」がある。
 引用しようとすると全文引用になっちゃうので、リンク先を読んでいただきたい。付け加えておくと、転載論争当時、OYAJI氏のブログに寄せられた多くのコメント、多くのトラックバックが削除されていたのは、事実である。ekken氏のものだけではなく。削除というのは、諸刃の剣だ。OYAJI氏が「一定の基準で削除した」といくら主張なさっても、検証は難しい。証拠となるべきリンクは、削除されてしまっているからだ。

 この記事に関して、私が入れたコメント▼。

しばらく考えましたが、この記事に関しては、反論をしないことにしました。反論しようとすれば、どうしてもOYAJIさんへの人格攻撃になるからです。《Yahoo》ブログで次々に記事をたてていますが、ブログの問題事例を論じるという姿勢は崩したくありません。先日のメロパ記事以来、OYAJIさんの記述は、私個人への人格攻撃であると受け止めていることも書き添えておきます。
2008/10/5(日) 午後 7:59
▼OYAJI氏のレス。
阿檀さん : 阿檀さんのブログ姿勢を問うことが人格攻撃であると受け止められるのであれば、阿檀さんに対しては質問すら出来ないですね。反論があれば、正々堂々と反論されるとよろしいかと思います。私は一連の議論で「人格攻撃をしようとする意図」などは全く持っておりません。
2008/10/5(日) 午後 8:55
 正直にいえば。ここでOYAJI氏の記事に対して、目には目を的に反論をするとしたら、「この話題」「この論点」についてではなく、これまでのOYAJI氏の多くの議論のなかから、OYAJI氏のご主張の矛盾をついていくことになる。「OYAJIさんという方は」という構文になる。これは私の基準では、「人格攻撃」なることは、後で説明を加えたい。

 やっと、ここで、この記事の最初に戻る。

 繰り返すが、私には、他人の人格攻撃を禁止する意図はない。他人の人格攻撃を攻撃する意図もない。だが、OYAJI氏への説明責任という意味でも、自分の軸足を定める意味でも、自分がどこまでを人格攻撃と感じるかは、書き留めておこうと思う。
 

ヒトを対象にするのはなるべく避ける。

 私は、褒めるときはヒトを褒めることも多いが、批判するときはできるだけヒトを対象にすることは避ける。私ならこういう構文は避けるだろうな、と思いながら読んだのは、以下のセンテンス。
「何よりも、私が残念なのは、そういった純粋な相手の気持ちを踏みにじるような発言を平気で行ってしまうその心根がとても哀しく残念に思いますし」(既出。省略されているが、文の対象は「阿檀の心根」)
「詮索して書く、その心遣いの無さに憤っているのであって」(9/28,OYAJI氏。省略されているが、文の対象は「阿檀の心遣いの無さ」)
「素直にその言葉を受け入れずに、相手の気持ちを踏みにじるような発言をした事に対してのそのあまりの心遣いの無さに憤っている のです。」(9/28,OYAJI氏。省略されているが、文の対象は「阿檀の心遣いの無さ」)
「阿檀さんのブログ姿勢ってそんなのだったの?」(既出、対象は、個別事例ではなく漠然と「阿檀のブログ姿勢」)
 私あてじゃないけれど、このあたりも。
「つまり3年間以上もの長きに渡って粘着して批判ばかりしているわけです。」(10/05,OYAJI氏、ekken氏に対して)
「世間では、こういう人物を 粘着ストーカー と言うらしいですね。」(同上)

感情の濃い語彙や悪語は慎重に使う

 語彙には、感情の「濃い」ものと「薄い」ものがある。同じ言動に対して、
 a.「整合性を欠く」
 b.「ダブルスタンダードはフェアではない」
 c.「ダブルスタンダードは卑怯」
 d.「ダブルスタンダードは卑劣」
と表現をしうる。個人的には、感情の濃さは、
 a≒b<c≒d
くらいと感じているが、「a≒b」あたりはちょっと人によるかもしれない。
 批判記事のときは、できるだけ、「感情の濃い」語彙は避けるようにしている。
 それから、「悪語」。アホ、バカ、キチ○イの類。差別的に用いられる心身の病や障碍。マゾ/サド/ロリコンの類の性的嗜好に向けられる言葉。(ただ、ときどき、自分には使う。言葉フェチとかww)

 この前後の議論のなかで悪語と思ったのはこれ。
「アホやなぁ・・・」(既出)
 これに対しては、コメントしたとおり↓それほど重くない言葉であることは承知しているが、悪語であることには変わりないと思う。

関西圏の「アホ」は、関東圏の「バカ」よりかなり軽い語感となりますので、関東圏の読者の方はご留意ください。と、関西出の父と関東育ちの母に、関東で育てられたワタシが言ってみます^^
 感情が濃いな、と思ったのは、下記のような語彙。
「聞き捨てならない暴言」(既出)
「純粋な相手の気持ちを踏みにじる」(既出)
「哀しく残念」(既出)
「純粋な心の発露からの言葉を、不純な動機づけが元になっている と断じてしまう」(既出)
「素直にその言葉を受け入れずに、相手の気持ちを踏みにじるような発言をした事に対してのそのあまりの心遣いの無さに憤っている 」(既出)
「何らかのアコギな方法」(『ひどい言われようだ(つД`)』/ちなみに私の元発言には、「アコギ」を意味する単語はない)
 ただし、感情の濃い語を使っても、文章として荒れない「美しさ」を感じさせる記事を書く方は確かにある。だが、私には無理なので、使うのを避けている。

人格攻撃を禁止する意図はない

 繰り返すが、私は、他人の人格攻撃を禁止する意図はない。
 どこぞで、「罵倒芸」という言葉が話題になっているようだが。「バカ」「キ○ガイ」「ウンコ」wという悪語を軽々と使う罵倒系のレトリックで、「あんな語彙を使うヤツのいうことは取るに足りないのさ」という「逃げの余地」を作ってあげるのは、一種の優しさじゃないかと思うこともある(超にっこり)。ああ、そういえば。罵倒に関して、「ツッコミ所を残しておく」と書いていらしたですねぃ。
 罵倒芸というのは(上記リンク先にもあるとおり)、キャラづくりに掛かっている。あっちこっちで色んなことをしたい私には、無理だ。
 どちらかというと、どこかで見た「慇懃プレイ」っていう語のほうが身に覚えがあるカモシレナイw。そのせいだかどうだか、私の批判系の記事は、批判を向けられた相手だけでなく、読む人にも息苦しいらしい。(例の三下り半の友人の言)
 悪語/罵倒については、もう一つ。頻用することにより、軽くなるというのがあると思う。「バカヤロウ」を頻用する人に/場で「バカヤロウ」と言われるのと、めったに使わない人/場で使われるのでは重さが違う。私はこれを勝手に、「罵倒デフレーション」と呼んでいる。
 私は安易に人格攻撃する人、罵倒芸に達することなく悪語を使う人を尊敬はしない。しかしそういう人は、私とは決定的に価値観が異なるはずであり、私なぞの尊敬をうけなくても一抹の痛みもないはずである。ネットには多様な人間が存在する。「すべての」アクセス者に尊敬されることは、絶対不可能とはいわないまでも、限りなく不可能に近いのだ。
10/23はてな記法練習中