鼻先を空に向けて、町の匂いをかぐ
どこぞの悪い狐は、大変に疑い深いので。誰かが、「どこどこの町は○○だ」と言っても、あまり信用しない。とりあえず、とことこと、見晴らしのいい丘のうえまで、町の匂いを嗅ぎにいく。
《F》の町、狐めの知り合いはいい方が大変多いのに、町の匂いはあまりよくない。アフィリエイトとアダルトの臭いに、鼻先に皺を寄せる。でも、なんでも受け入れる自由もまた、《F》の特徴なのだから仕方ない。
《A》の町は、なぜかコピペが多い。いかにもアフィリエイトらしい同じタイトル、同じ書き出し、でもURLだけが違う。
《Y》は《F》や《A》に比べればキレイなものだ、と、狐は思う。しばらく嗅ぎまわっても、狐の嫌いな「てんさい」の匂いは、実はそんなにしなかったりもする。
《H》は匂いが嗅ぎ取りにくい。それでも、根性だして1軒ずつ扉を叩けば、そこそこご馳走にありつける。
狐が一等好きなのは《E》なのだけれど。狐めはもともとここで育ったのだから、水が合うというヤツなのだろう。そしてここは、町民しかこの丘には登れない。
どんな匂いが好きかなんて、みんなそれぞれ違うのだから。どの匂いが好きだとはいえても、どの匂いがいいとか悪いとか誰か一人が決められるものじゃ、きっと、ない。
たくさんの匂いを嗅げば嗅ぐほど、「どこどこの町は○○だ」と簡単にいうのは難しいのが判ってくる。
誰かに道案内を頼むことはできるけれど、そうすればかならず、案内してくれた人の好みと偏見が入ってくる。
「e氏のブクマからだけ──を見たって、一番たくさんの人たちがどんなことをしてるかはわからんよ」
悪い狐はお行儀悪く後ろ足をあげて耳のあたりなぞ掻いた後。またどこかへ遊びにでかける。
[参]「町」を単位とする点に疑問を抱く。
Y!風麺氏ブログ『観葉会』で、「マルチポストはなぜ悪い」方向の話題が出ている。
私は、マルチハンドル・マルチポスター相手に優しくない。
本当に困っている人が複数の場所に同時に質問を投げかけることは、そんなに悪いことなのでしょうか?
tagindexさんのマルチポストルール
個人的には、「マルチポスト」という語を知ったすぐ後にtagindexさんのマルチポストルールを知ってしまったため、このあたりが許容とNGの境界線だと(漠然と)思っていたのだが。
(勝手に要約、原文は上記リンクを参照ください)
- その投稿がマルチポストであるということを明記。
- マルチポスト先のURLを提示。
- 問題が解決した場合は、全てのマルチポスト先で報告。
- 相手先の掲示板でマルチポストが禁止されている場合には、その掲示板のルールに従う。
要するに、1つの掲示板で回答がついて解決した課題を、他の掲示板で別の回答者が回答を書くという無駄を、極力発生させないように配慮していれば、複数の掲示板への質問は「推奨はしないが、許容範囲」というルールである。これって一般的なのだろうか、検証まではしていない。
「配慮あるマルチポスト」は少ない
ただ、経験上、そこまでの配慮をしたマルチポストは、ほとんど見たことがない。けれど、回答をつけながら、
「マルチポストは、マナー違反なんですよー」
と書き添えると、
「知りませんでした」
と誠実に謝罪してくださる質問者も、けして少なくはない。「初歩的な」質問をQA掲示板に投稿するような「初心者」は、「マルチポスト」がいけないことを知らないケースも多いのだ。
なぜマルチポストするのか
ここから先は、まったくの印象論になる。上に、謝罪されることも多いと書いたが、その際の質問者の慌てようからの“空想”といってもいい。
質問者は、マルチポストによって回答者が不快の念を抱くことなんてことは、想像だにしていない。
なぜなら。
たぶん、「回答者が、なぜ回答を書くかが、判らない」から、ではあるまいか。
と簡単に書いたけれど。質問掲示板で回答者が回答を書く理由は、一つではない。私自身だって、一つではない。
答える理由は一つじゃない
たとえば。はっきりって、自分の書いた記事やリリースしたテンプレート・プラグインの宣伝のために、回答を書く場合もある。といっても、私はアフィリエイトやランキングに参加しているわけではないので、記事にアクセスがあっても、テンプレートやプラグインが余計にDLされても、利益といったものはない。誰かの役にたてばと思った記事やテンプレート/プラグインが、「役に立つという目的」を果たしたのが嬉しいだけだ。
大きな声ではいえないが、言葉の荒っぽい回答者の鼻先から、質問を「ひっさらう」という目的であることもある。ミ^。^彡っ。oO○(悪い狐!)
この質問には、他の回答者より自分のほうが、良い回答が書けるだろうという自負があることもある。
回答にチャレンジすることが、パズルのようで楽しいから、ということもある。
私一人でも、質問により、これだけ違った理由がある。
答える理由が判らない
質問者が質問した時点で、回答者の回答をまだ見ぬ時点で、回答者がなぜ回答をするのか、想像しようにもあまりに茫漠として。想像しきる前に、諦めてしまうのではなかろうか。……それより何より、質問者は「知りたいこと」で頭がいっぱいなのだ。
あまり深く考えないまま、「回答者には、回答をする、初心者にはあずかり知れぬ理由があるのだろう」と心のどこかで諦めている。そして、自分は、回答が得られそうな、最大の努力をする。すなわち、わかるかぎりたくさんの場に質問を書き、できるだけ多くの人の目にそれが触れるように努力するのだ。
回答する理由は一つではないと書いたけれど。よほど特殊な例でない限り「質問者に読んでもらうため」という要素はある。マルチポストをする初心者は、1ケ所で解決してしまうと、自分が立てた質問を全部は読んで回らないこともある。
「回答者だって、質問者の役に立てばと思うからこそ、時間と手間をかけて回答を書くんです。それを無駄にするようなことはよくない。だからマルチポストはよくない」
そういわれると、質問者は、回答者が回答をする理由が、自分にも簡単にわかるようなものであることに、びっくりする。……びっくりしているように見えることがある。
ああ、もちろんこれは、「悪意なき」マルチポストの話です。
ひとそれぞれ
「ひと、それぞれですね」
そう1行だけ書けば済むこと、その1行しか書けないことについて。このごろようやく、書かずに済むようになったような気がする。
「ひと、それぞれ」
そのことが、ようやく自分の中で「当たり前」になってきた。
少女期の私と、まだ若かった親の組みあわせでは。「ひとそれぞれ」であることは許してもらえなかった。私も変わり、親も変わり、私の年齢も変わったし、“世間”とやらも変わったのかもしれない。
ふと気がつけば、
「ひと、それぞれなんだから!」
って、あらためて叫ばなくても、もういいみたいだ。
そのことに気がつくのに、いささか時間がかかったのが、私の頭の悪さを露呈しているなw
□
言及しないこと、発言しないことは、読まなかったことではないし、考えなかったことでもなく。てんと前足をそろえて、ピンと耳を立てて、コンとも啼かずに、じっと見ていることもあります。
ブラウザを最大化して開く話は、私はしていません。
ekkenさんに「ブラウザを最大化して開く必要はないよ!」という記事で言及をいただいたのですが。少なくとも、タイトルと当方で書いた内容はズレています。私は一度も、「ブラウザを最大化して開いている」と書いた覚えがありません。
Adan Kadan Blog 「モニターサイズがこれだけ大きくなっている時代に、」から結んだリンク先、「窓サイズ専用、《BROWSIZE.ORG》」の一覧表でお示ししたのは、「モニターサイズではありません。ブラウザーの窓サイズです。」
800pxや1024pxのモニターで、1600pxの窓が開ける道理がありませんから、数年前よりモニターのサイズは確実に大きくなっていると思います。
データ表をご覧いただけば判るとおり、(72%-57%で)14%の人が「1024より大きく、1152以下」で閲覧しています。こんなモニターサイズあったっけ?、と、(《忍者アクセス解析》で)モニターサイズをチェックしましたが「1920×1200 / 1680×1050 / 1600×1200 / 1440×900 / 1280×1024 / 1280×960 / 1280×800 / 1280×768 / 1024×1024 / 1024×768 / 800×600 / 800×480」となっていました。やはりどうも、「1024より大きく、1152以下」、というモニターサイズは存在しないように思われます。つまり、1024を越えるモニターサイズでも「最大ではないハンパな窓サイズで」ブログを見ているわけです。
1000px幅のテンプレートを使っているekkenさんに、「自分が読みやすいと思う表示幅が800pxと仮定した場合、それよりも大きなウインドウでブラウザを開く理由が分からない。」といわれました。
「幅いっぱいに表示されるテキストが読みにくいので調整する必要がある、だけど調整するのは面倒だよね」と言うのであれば、逆に固定幅あるいは最大表示幅を設定している人は、何の為にブラウザのウィンドウをモニタのサイズ限界まで大きくしているのだろうか、と疑問を感じた。
たとえば現在のekken氏のブログを見た場合。「最近の記事」まで確認したければ、窓サイズは約1000pxです。記事カラムは約740px。別にekken氏のブログだけでなく、「Yahoo Japan」「朝日新聞」も全体を見るのには約1000pxです。
こういう窓を開いておいて、そこから幅100%設計のサイトへ異動すれば、テキストの表示される幅は1000pxになります。私には、1000px幅のテキストは幅が広すぎるので、ちょっと読みかけて、面白そうな記事があれば、ブラウザの窓幅をかえて、最初からまた読みます。
100%設計のサイトばかり集中して見た後に、広幅段組のサイトを見る、と順番を決めていれば、ブラウザの幅を調整する手間は1度で済むかもしれませんが、そんな閲覧の仕方は、(少なくとも)私はしていません。
モニターが大きくなっても、人が読みやすいと思うウィンドウのサイズには限界がある筈。可変幅のウェブサイトの幅が大きすぎて読みにくいと言う人は、その人が読みやすいと思っている固定幅のウェブサイトを見ている場合に、何の情報も無い余計な左右のマージンを必要以上に表示させていることになる。この不要な大きすぎるマージンを、適度な幅になるようにして表示させたウィンドウサイズが阿檀さんにとっての読みやすい大きさなのだとしたら、モニターのサイズとは無関係にブラウザをその幅で表示すれば良いと思った。
すべての訪問先が100%幅設計のサイトであれば、たしかに、ekkenさんのおっしゃるとおりです。しかし、現在、1000px幅で段組をしてあるサイトがたくさんあるのです。……なんてことが、1000pxテンプレ使用者であるekkenさんがどうしてお判りにならないのか。そこが良く判りませんでした。
コメントのなかでお一人だけ、
仮に”自分が読みやすいと思う表示幅が800px”でも、3列mixiとかニコ動とか横スクロール無しで表示させようと思ったら(表示部分で)1024必要じゃないですか?/まぁどうせウチは17インチなんですけどね。(id:rag_en氏)
と気づいていらっしゃいますね。
【追記】
ああ。わかった。Fxだと可変なのですね>ekkenさんのテンプレ。
WEBページの「ぱっと見」について、ちゅくちゅくと考えたりしてみたのだった。
モニターサイズがこれだけ大きくなっている時代に、いまだに幅いっぱいのページ作っている方も見かける。なぜか、W3C信望者に多いような気がしてならないのだが、気のせいだろうか? たぶん、「調整したい人は勝手にしてください」ってことなんだろうなぁと思うのだけれど、それって、読み手に「ヒト手間」をかけさせるという点においては、音楽がいきなり流れるページを作っておいて「キライな人はオフボタンをクリックしてください」というのと同類ぢゃないのか?
と書いたら、OYAKONEWSさんに叱られましたっ! そういえばOYAKONEWSさんちも全幅でしたね^^; (議論になったら、《はてな》へ移動するようにしているのでこちらで)
何いってんだよ。読みたいからアクセスしてくるんだろ?読む努力するんだろ。
この一文をカッコイイと思った時点でなにか負けた気がす(ry はい、自分として、読む価値があると感じたページであれば、2秒の手間で窓を畳んで、読ませていただいております。でも、私を含め、みんながみんな、OYAKONEWSさんほど優れた文章を書くことができるわけではありませんのでねぃ。
ほんというと、あの文章は別のサイトの話だったのです。
ただ、ほんというと、先の記事を書いたときに考えていたのは、別のサイトのことでした。
ある少女向け掲示板の、ブログ板とサイト板に、大人の回答者がほんの数人、入り込んで、回答をつけています。阿狐めは、そのうちの一人です。質問者は、小学生から高校生がメイン。ブログ板では、小学生がCSSを繰って、ブログテンプレートをカスタマイズします。もちろん、カスタマイズ向きのテンプレートを提供するT氏や、すぐれた回答を付け続けるK氏のような大人回答者の助力があって、ではありますけれど。そして、数ヶ月質問をしていると、自分がわかる質問には回答をつけるようになる子も出てきます^^。
サイト板のほうでは、
「ホムペを作りたいのですが、どうやったらいいですか!」
こういう質問は、言い方を微妙に変えながら、繰り返しあがってきます。その一方で、
「×年前からサイトを作っているのですが、最近になって、W3Cというものがあるのを知りました。自分でできるだけW3Cにそった形にしたつもりなのですが、自信がありません。見ていただけませんか」
という質問も、多くはありませんが、ないわけではありません。
後で悩むなら、最初からW3Cに準拠した形で作ればいいのに、と思いますし。さもなければ、どこぞの悪い狐のように、W3Cなぞ見捨てて、見てくださる「客」の目だけを心すればよいのです。それでも、
いい加減なHTMLをあとで修正するのは大変ですから、できるだけ最初からきちんと書いておくことをおすすめします(WebKanzaki)
を地で行く、「大変な修正」を目のあたりにしていると、悪い狐でさえも、ちくっとどこかが痛むのです。
ところで。「ホムペを作りたいのですが」という質問があったときに。大人回答者たちは、できるだけ
先の記事で言及したときに頭に置いていたのは、じつはそこで「回答者には挙げられるのに、質問者には選ばれない」サイトのことでした。
そんな状況のなか、Niichi氏が『10press』をひっさげて回答サイドに参加なさって以後、少し流れが変わったかも、と思っています。回答へのレスで、「あ、(『10press』を)読んだな」という手ごたえを感じるようになりました。初心者に見せる対象として考えたときに、サイトが「美しい」ことは意味無いことではないのだなあ、と思ったことでした。
そういえば、ググレカス。
そういえば。
誰でも検索をかければ簡単に回答を導くことのできる質問に対しては「ググれカス!」と答える方が、結果的に親切なんじゃないか、と思った。(ekken氏)
という話題がちょっと前にありましたが。私は「ググレ」(カスはつけませんがw)と答えるときと、答えないことがあります。答えないときというのは、『10press』のような例です。「ああ、このサイトは良いなあ」と思っても、新しいサイトは「ググレ」では先に出てきにくい。SEO対策だかなんだか知りませんけど、「え?」というサイトがトップへ来ることさえある。けれど、上質の参考サイトへのリンクを1度、示せば、その初心者は、他の疑問が出てきたときも、そのサイトで調べることができる。この手の話は何度も書いたので(『Search or Source』/『ネットを始めて間もない頃,私は,検索のプロだった』)ここでやめて、ズレてしまった話を元へ戻しますが。
ブログを鳴らす少女たち
音楽聞きたくてアクセスする訳じゃないよ。
以前、こう書いたことがあります。
ブログに3つくらいのフェーズがあるような気がしてきた。
一つは、「玩具箱」のフェーズ。記事は、ペットの餌のために書いていたりする。古くからネットをやっている人間には本末転倒に見えても、「人」が(PETで)「遊ぶ」ことを否定したら、世界の玩具屋は滅んでしまう(笑) このフェーズのユーザーに、「あまり重いと閲覧客に迷惑だからペットをはずせ」というのはバカげている。彼らにしてみれば、それこそが本末転倒なのだ。
くだんのサイトで女の子のブログをたくさん見るせいなのかもしれないので、ちょっと自信はないのですが。私が見る限りでは、いきなり音を鳴らしてくるのは、女の子のブログが多い気がします。音楽もブログペットと同じで、ブログを「玩具」にしているじゃないでしょうか。とか言いながら、「いきなり音楽はじつは嫌われますよ」 とか書くものですから、叱られたりしておりますがw
悪い狐は元気に跳ねすぎて、あちこちで叱られるのに忙しうございます。
ミ^。^彡っ。oO(なお「ちゅくちゅく」には意味がありません)
※ものすごく遅ればせですが、OYAKONEWSさんにTB。失礼いたしました。
人格攻撃という言葉が、伝わらなかったみたい。
OYAJI氏ブログのコメント欄にて、「人格攻撃」という言葉が伝わらなかったようなので、説明を書いてみようと思いたった。
もう《Y!》限定の話題を完全にはみだしているので、自分では議論系に当てている《はてな》で書く。
私の「人格攻撃」定義に、一般性があるかどうかは、よくわからない。ご意見があれば、コメント欄にどうぞ。とりあえず、他人に人格攻撃を禁止する意図ナシ。他人の人格攻撃を攻撃する意図ナシ。どちらかというと、「私自身の行動基準」の表明、みたいなもの。
ひとつは上に書いたように説明のため、もう一つは自分で自分の基準を守るために、明文化の意味合いで書いてみようと思う。私は、へんたい言葉フェちなので。漠然ともっている自己規律も、言語化すると少しばかり守り易くなるようなところがある。ブログなどに載せて公表すると、さらに少し、守りやすさは上乗せされる。
私自身は、一度、自分の感情の「限定解除」を宣言して個人批判記事をあげ、その後、(正直にいえば今に至るも)「感情の後遺症」に悩まされた。(細かいコトぁ、聞くなw)
ただ、その件を通して、自分はそれまで他人に対する人格攻撃や感情の爆発をやらかさない中で友人を作ってきたのであり、繰り返せば、そういう友人を失うだろうと実感した。(正直にいえば、この前後のごたごたのなかで、私はもっとも大切なWEB上の友人の一人に、三下り半をもらっている)
その一方で、いったん解き放ってしまった感情という猛獣にもう一度鎖をつけるのは、自分自身との格闘技みたいなところもあってw、自分のなかでいくつかのことを「言語化」していった。誰にいつ聞かれても答えられるように、言葉を用意していった、という感じ。そして、いくつかの記事の形で、公表もしてみた。
・議論の理由
・批判のライン
で、今回は。私が現在、何を「人格攻撃」と呼んで、避ける努力をしているか、書き留めてみようと思う。